実は昨日、ジュンヤさんのデニムにキンキラ金のスニーカーを履いて、清澄のとあるギャラリーに行ってきました。
写真家アラーキーの「左眼ノ恋」という個展を観てきたのです。
フォトグラファー等々、様々なアーチスト活動をしている親しい友人から情報をゲットして、ちょうど仕事がキャンセルになったこともあり、夕方5時すぎに向かっていきました。
絵や彫刻品、その他様々な美術品を見るのが好きなハヤシですが、写真だけは「よくわからん」代物でした。
いくつかフォトエッセイ集みたいなものは持っていますが、いわゆる、ガチの「写真集」は持っていない…
そして、アラーキーの写真は、何度か写真集で観たことはあるものの、私にとって、「怖くて正視できないもの」でした。
下半身丸出しで緊縛されている女性の姿が、ショックでショックで…なんていうかわいい恐怖ではありません。
なんというか、写真そのものが生々しすぎて、観ている自分の醜さとか欲望とかを目の前に突き付けられているような、おそらくそんな感覚があったのだと思います。
「超絶美しい!!」といわれている花の写真ですら、私にとっては「生き物」に見えて恐ろしかったのです。
それが、なぜか、友人から「個展をやっている」と言われて、ふっと観に行く気になりました。
私は実は、アラーキーが右眼を失明したという話を昨日まで知りませんでした。
今回展示される写真は、そのような状態であることを表現するために右半分を黒インクで塗りつぶしているということを知りました。
そんな情報も、もしかしたら、個展に足を向けさせた理由だったのかもしれません。
あと、この友人の写真が私は好きで(今まで写真がわからなかったのだから、個人的に画期的)、その友人がアラーキーが大好きだ、というので、興味が向いた、ということなんだろうな、と思います。
まあ、そんなわけで、不思議な克己心で、私は、「左眼ノ恋」を観に向かっていったのでありました。
観て思ったのは…アラーキーファンにとっては、今更だと思うのですが、「生きること=写真を撮ること」なんだなあということでした。
女を見つめる欲望の眼。
恐竜のおもちゃを思いのままに置いたり、細工したりしている少年の眼。
街を行き交う人や車、空を見つめる生活者の眼。
アラーキーの精神や、心や、生き様が全て写真になって表れている。
それがアラーキーの写真の最大の魅力で、見る人を中毒患者みたいにしてしまうんだなあ…とそんな気がしました。
左眼だけになっても、見るもの、感じるものは変わらない。そんなメッセージのようにも思えたし、左眼だけになっても、俺は自分の撮りたいものを撮りつづけてやるんだという覚悟の表れのようにも思えたし…
街の片隅の元倉庫みたいなビルにある、決して大きくはないギャラリーで、白い壁に整然と写真が並べられている・・・しかも入場無料で「誰でも観に来てよ」という展示・・・
強くて、でも、ある意味自然体なメッセージが込められた、とってもとっても素敵な個展でした。
あんなに怖かったアラーキーの写真が、今回はちっとも怖くありませんでした。
別に、右半分が黒かったからというわけではないでしょう。生々しい色彩は、前と変わっていなかったはずですから。
自分なりに人生の修羅場を、いくつか見たり踏んだりしてきたことの証、なんでしょうか。
そういえば、人には利き腕、利き脚と同じように「利き眼」というのがあるんだそうです。
まず、両眼を開けた状態で、指を一本自分の顔の前に出します。
その後、片目をつぶって指の位置がずれて見えなければ、開いている方の眼が、利き眼。
ちなみに、ハヤシの利き眼は、左眼のようです。
私もこの左眼で、いろんなものに恋ができれば、よいのですが。
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