2016年5月29日日曜日

亀岡拓次が安田顕にしか見えません。

映画「俳優 亀岡拓次」を観たのは、確か3月の終わりころのことだったと思います。

北海道にいたころ「変態ヤスケン」として道産子のハヤシを楽しませてくれたヤスケンが、遂に映画で主役を張るようになったか(鈴井貴之監督の映画を除きます)と思うと、もう嬉しくて嬉しくて、万難を排して観に行ってしまいました。

かつては、映像を見てしまったら原作本は読まない、原作本を読んだら映像化されたものは観ない主義でした。
なぜなら、イメージ狂うことが多かったから。

しかし、最近は、原作に忠実な映像も少なくないようで、以前に比べて抵抗感が少なくなっていました(例えば、「かもめ食堂」とか「プール」とか。あれ、このふたつは同じ監督だったような…)。

「亀岡拓次」の映画は、男の煩悩を集約したような冴えない私生活を送る一方で、それがゆえに、映像の世界では様々な監督から「きっちり仕事ができるバイプレイヤー」として重宝がられる脇役俳優の日常がぷんぷん匂ってくる、本当に良いものでした。

加えて最近、「自分、リラックスするには本を読むのが一番なんだわ」ということに気が付き、読書の趣味が復活しました(移動中は基本読書)。

そんなわけで、5月のとある日、ふらっと丸の内オアゾの丸善に入り、そこで、「俳優 亀岡拓次」の原作本を見つけて購入して読み始め、一昨日読了しました(ハヤシは酷い遅読です)。

映画の方は、いくつかのエピソードを交えながらも、麻生久美子に対する恋心をモチーフにして全体をひとつのストーリーにまとめています。

原作の方は、ひとつひとつの現場の話が1話として完結している、短編の連作物です。原作では全く「人物」としては登場しない人が、映画の方では、要所要所で(声だけ)出演したりとか、そういう違いはあります。

が、映画は、原作の持っている「冴えない男。だけど仕事の絶えない職業俳優」という、微妙なうらぶれ感や、亀岡のそこはかとないプロ意識や職人魂、それでいて「だめじゃん、それじゃあ」という普段の亀岡の雰囲気を、そのままに再現しています。

まあ、はっきり言えば原作者の戌井昭人さんは、主役の亀岡は、もっと見た目的にやばい感じの人を想定していたと思われ、ヤスケンはたぶんいい男すぎるようにも思えます。

しかし、原作の設定で主人公も映像化するとなると、温水洋一を多少マッチョにして、くせ毛のややロングのヅラをかぶせなければならないという難しいことをしなければならなくなってしまいます。

そして、不思議なことに、原作本には「本来であれば↑な感じなんだろうな」という亀岡の容姿に関する記載があるにも関わらず、映画を見てしまうと、小説を読んで頭の中に浮かんでくる亀岡が、そのまんまヤスケンになってしまうのです。

それだけ、映像がヤスケンを「亀岡」にしていたということなのかもしれません。
しかし、それだけではないと思うのです。

ヤスケンが今まで道産子を中心として世間に見せてきた姿が、あまりにも「亀岡的」だったのです。

例えば、テレビ公開包〇手術に臨んで、術後、海岩の上で素っ裸になって写真を撮ったりだとか。

北海道テレビのキャラクターonちゃんとして臨んだ「水曜どうでしょう」の「釣りバカ対決」企画で、ゲロゲロに船酔いしてひっくり返ったり、泥酔したふりで大泉洋が釣ったワカサギをまきちらしてみずうみにかえしちゃったりだとか。

牛乳の早飲み競争で、鼻から牛乳吹き出したりとか。

そういう過去の映像の記憶があったからこそ、ハヤシには「亀岡がヤスケンにしか見えねえ」状態になってしまったのだと思います。

ハヤシはヤスケンのファンで、まだ札幌に住んでいたころ、夕方の地元の情報番組のロケで町場に出ていたヤスケンの実物を、よく見に行ったりしていました。

普段のヤスケンは、物静かであまり人とも話さず、その姿がウチに変態パワーをためているのだと思わせていたのでした。

「亀岡拓次」は間違いなく、ヤスケンの当たり役です。

小説の方は、「俳優 亀岡拓次」の後、続編の「のろい男」というのが出版されています(今読んでます)。
ひょっとすると、まだ文芸誌で連載中だったりするのかな、と思わせます。
映画では登場していないエピソードもあります。

そんなわけで続編を期待したいハヤシだったりするのでした。
もちろん続編も、亀岡はヤスケンに決まりです。


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