2013年6月23日日曜日

オネエの生き方を考える。

今週(土曜日が終わったので先週か)、ひとつ歳をとりました。

まだ、40代の前半ではあるのですが、昨年までの誕生日と違って、「やったー、誕生日!!」という無邪気な気持ちになれませんでした。
おそらく、もう人生の折り返しを過ぎただろうことを自覚したからだと思うのですが、それでも、今日は自分で2日遅れのお祝いをしてしまったところが、未だ子供じみている…かも。

トップスのケーキ、うまかったです。

さて、最近、はるな愛が「私男かもしれない」発言をして、非常に話題になっています。
仕事で男装したのがきっかけで、目覚めてしまったとかいうことですが…これ、多くの人は、結構ビビったんじゃないでしょうか。

かくいう私も、一度はビビりました。

だって、はるな愛って、いわゆる「オネエ」系の人の中では、ネタで「大西賢示」とか呼ばれているものの、かなりしっかり見た目「女の人」で、見ていて痛さがないですし、その分、心の中もかなりしっかり女の人なんだろうと見受けられる人でしたから。

しかし、ビビった次の瞬間には、「ああ、やはり、ニューハーフのホルモンバランスって微妙なんだ。体を変えても微妙なものは微妙なんだ」と、なんとなく納得してしまったのです。

思い出したのは、東野圭吾の小説「片想い」でした。

この小説の中に、男性になろうと試み、違法な戸籍交換システムを利用して別の人間になろうとする女性が一人出てきます。
その女性が性同一性障害であることを知りながら、女性としてずっと愛し続けてきた男性が、この女性のことを、男性と女性のちょうど狭間にいる、だから男の体になったら、今度は自分は女ではないかと悩むはずだという趣旨の発言をしているシーンがあります。

はるな愛ほど、完璧に女性になったと思わせる人でも、所詮こうなんだろうな。
いわゆるニューハーフの人の多くは、こんなもんなんだろう。
と、そんなことを思ったりしたのです(もしかすると、全然違うのかもしれませんが)。

仕事で、性同一性障害の方の依頼を受けたことは何度かあります。
いずれも性転換手術をした方でしたが、望んだ体を手に入れたのに、なんだかあまり楽しそうには見えませんでした(まあ、そりゃあ、法的トラブルを抱えているわけだから、楽しそうにしていること自体無理があるようにも思えますが)。
古い友人は、行きつけのおかまバーのママさん(この方は手術していない)から、「とっちゃった子のほとんどは、精神的におかしくなって、自殺しちゃう子も少なくない」と聞いたとか(注:これもこの方の周りの人がたまたまそうなんだろうという留保はここでつけておきます)。

もちろん、体を変えたらメンテナンスをするために、ホルモン注射をしたり、術後も病院との縁はずっと切れないのでしょう。
その煩わしさや金銭的な負担もかなりなものだとは思うのですが、逆に言えば、そうやって、ホルモンバランスをとるべく医者に対応してもらえるんだから、精神のバランスだって、術前よりも安定したものになるんじゃないのか…と思うと、あながちそうでもないらしく。

一体、ニューハーフ、オネエと呼ばれている人たちは、この世の中、どうやって生きていくのが、一番心地いいんでしょうかねえ。

私自身はあんまり覚えていないんですが、まだ受験生時代、妹に「お姉ちゃんは弁護士になったら、何をやりたいのさ」と問われて、「ニューハーフの人権」とか答えたそうで。

当時から、やれ「こどもの人権」「女性の人権」とかいろんな類型の人々の人権を守ろうという動きの中で、いわゆるニューハーフ(というべきか、性同一性障害というべきか)の人たちの人権が狭間に落ち込んで、顧みられていないだろという問題意識を持っていたことは確かです(白状すると、そのころ観た「プリシラ」という映画に影響を受けたという非常に単純なきっかけです)。

で、それから、もう少なくとも、7,8年が経ったというのに、欧米では「同性婚を認めるか認めないか」みたいな議論が盛んで、同性婚が制度化された国もいくつかあるというのに、この日本という国は、「オネエ系」と呼ばれるタレントさんのごく少数がもてはやされているだけであって、ニューハーフ(というべきか、性同一性障害というべきか)と呼ばれる人々の暮らしやすさ、生きやすさは、さっぱり改善されていないんじゃないのか(注:一定範囲の人が戸籍上性別を変えたりできるようになったりはしましたが)と思うのであります。

どうなんだろう。

心と体の不一致で悩む、苦しむということの要因の相当程度は、そういうものに対する周囲の人の理解のなさとかに負っているところが案外あるんじゃないんだろうか。

そうであれば、「実は性別って絶対的なものではなく相対的なものなんだ」とか、「いろんな事情(先天的なものも後天的なものも含めて)を人が抱えていることを理解しましょう」とか、そういう社会教育を充実させたり、同性婚を正面切って認める(注:日本の場合、養子縁組が同性婚に流用されている現実があります)みたいな制度整備を進めたりすることが、意外にそういう悩みを軽減する可能性を秘めているんじゃないだろうか。

考えると、きりがない。
それが、ニューハーフの問題。

ミッツ・マングローブとかマツコ・デラックスとか、テレビ的に活躍している人はいるけれど、ニューハーフとかオネエとかの定義があいまいである分、この類型に属するとされている人々の問題は、実は、まだまだ整理すらされていないということに気づきつつ、今日は、ペンを置くのでした(ペンで書いてはいないんですがね)。




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