2023年2月9日木曜日

アイデンティティについて、さしあたり結論。

 2月9日(木)の午後です。

夕方の会議がひとつ飛んで、暇しています。

まあ、毎日暇な時間が多いのですが、そういうときはいつも、飼猫ちこちゃんにとって「良いご飯」をネットリサーチしたり、自分の性的アイデンティティについて考えたりしているうちに、時間が経っていました。


で、もう今日はほぼそういうこともやりつくして、本当に暇…というか、ブログを書く時間ができたわけであります。


先ほども書いたとおり、自分の性的なアイデンティティについて、ここしばらく考えていました。

https://comcomcom0620.blogspot.com/2023/01/Aboutnonbinary.html


さしあたっての結論めいたものが出たので、今日はそのことについて書こうかと思いました。


自分は、シスジェンダー(身体の性が女性で自認する性も女性)のノンバイナリー(性表現が男女の枠にとらわれず)、そしてアセクシャル、もしかするとアロマンティックであるとという結論です。


一番大きい要素は、ノンバイナリーにしてアセクシャルというところかなと思います。


アセクシャルについては、「少なくとも10年くらい前からはそうであろう」と認めることについて抵抗はほぼなかったのですが、ノンバイナリーと称することについては、ためらいがありました。


というのも、ノンバイナリーの定義は読む物によって様々で、性自認について比重を置いて定義づけているものもあれば、性表現に比重を置いて定義づけているものもあり、定義自体がなかなかに定まっていないと考えたからです。


が、そんな中、「ジェンダーレスな考えに基づいて、自身を表現するセクシャリティと人々」とざっくり定義づけているものに出会い、「こういう風に表現しているなら自分もノンバイナリーと言えるわ」と思えました。


また、佐久間裕美子さんという文筆家の方のウェブ上のコラムを読んで、「ノンバイナリー」と自認することにためらいがなくなりました。


*そのコラムはこちらからどうぞ*

https://corp.netprotections.com/thinkabout/4622/


ノンバイナリーだからといって、自らを性的な意味合いを持たない「they」と呼称してくれと必ずしも言わなくてよいのだと。

性自認は女性で「she」と呼んでくれと言ってよいのだと言ってもらえた気がして、ホッとしたのです。


だって、私は、自分のことを「女子」だと思っていますから(女というよりは女子と言いたい)。

ノンバイナリーと自分を定義づけることによって、そこを偽らねばならなくなるのかと言われたら、それは違うだろうと思いましたが、ありのままでよいということで、自信を持って「ノンバイナリー」と言えると思いました。


アロマンティックに関しては、まだクエスチョンマークがつきます。

ここ10年、リアル社会で「ときめく男子」に会えていないだけなのかもしれないという気持ちが払しょくされないので。

だって、私、堂本剛くんや松重豊さん、男性として好きですもん。憧れますもん。

そういう「恋」的な感情を持つ男性にリアルで最近会えてないだけなのかなあ…と思うのです。

一方で「恋愛は自分の生活に必要ない」と思ったりもするので、アロマンティックの可能性もあるよなと思っているのであります。


さて、話をノンバイナリーに戻しますと…

自分が「自分はノンバイナリーである」ということに気付けなかったのは、人生において「女らしくあること」を強いられることが極端に少なかったからなのだろうと思うのです。


母親からは「女の子なんだからおしゃれしなさい」とは言われましたけれど、それ以外に、女なんだからああしろこうしろ…とほぼ言われることなく育ってきました。


父は心の底でどう思っていたか知りませんが、近しい大人たちは、私を「ありのまま」の私として受け止めてくれて、何かの枠にはめようということをしなかったのです。


戦隊もののアニメも見れば、キャンディキャンディや花の子ルンルンも見る。

そういう子供のまま?大人になることをほぼ全面的に許容されて生きてきたのでありました。

(まあ、父方の親せきは、学校の成績が良く進学校に進む私に対して「女の子なのにそんなに勉強してどうするの?」などと言っていたようですが、私自身が直接それを言われることはありませんでした。)


それは私にとって幸せなことではあったけれど、それがために、自分の中で「性的な違和感」というものがはぐくまれなかったともいえるのであります。


唯一、私に女らしさを求めたがったのが大学時代に付き合っていた男の子でしたが、その子が「こういう格好してほしい」というのを、私はほぼガン無視していました(一度サービスでしてあげたことがあったような記憶もあります)。

彼は、それ以上に私に自分好みのファッションをするように強要することはありませんでした。

私の好みじゃないファンシーな指輪を買ってきたりはしましたけれど。

今振り返ってみると、その体験が私にとって唯一「性的な違和感」を感じさせるものでしたが、当時は「ファッションの好みの問題」と片付けていて、気付かずに終わったのでした。


そう。

自分のアイデンティティの問題を、私は長いこと「ファッションの好みの問題」ととらえて生きてきました。


高校生のころからメンズのジャケットを買っていました。

大学生のころにメンズのデニムを履いていました(デニムは本来ユニセックスなファッションです)。

ユニクロでも、メンズのパンツばかり買っていました。

それらすべてを、「メンズの方に好きなのがあるから」「メンズの方が品物がいいから」というファッションの好みの問題にしていたのです。


実際にはそういう表層的な問題ではなく、アイデンティティの問題があったのだなと、「ノンバイナリー」という言葉に出会って、気が付きました。


宇多田ヒカルがカミングアウトしてから、ノンバイナリーを称する人が(日本で)増えているというのを方々で見ましたが、実は私はそのことは知りませんでした。


そういう意味では、「性的少数者」の一翼を担いながら、そういうものに対して疎い人間だったといえるのかもしれません。


このブログの継続的な読者さんの中にはすでにお気づきの方もいるかもしれませんが、私は人づきあいがあまり得意ではなく、ごく親しい人と過ごす以外は、自分一人で過ごすのが好きなタチです(最近は猫のちこちゃんと過ごすのが好きですが)。


そして、小学生ぐらいの時から、「自分と他人との間の違い」を感じ、中学生の時にはいじめに遭い、大学院生時代には「一門」の女の先輩に目をつけられ、それなりに人間関係で嫌な思いもしてきました。


そういう違和感の正体が実は、ノンバイナリーという自分の実態にあったのかもしれないと今感じています。


が、親兄弟が自分を受け入れてくれている分、随分マシな状況下で暮らしてきたのかなと思います。

自分が置かれていた環境が違っていたら、私は、もっと苦しんでいたかもしれません。


決して楽に生きてきたわけではありませんが、幸せな人生であるようにも感じます。


私は、特にここ何年か「自分探し」をしてきました。

メンタルの調子を崩していたのがきっかけでした。


もしかすると、メンタル不調は、自分の中にある違和感を放置したまま来てしまったツケだったのかもしれません。


発達障害かもしれないと思ってテストを受けてみたら全然違い、若干戸惑っていた時に、アセクアロマに出会い、マサムネの介護や転職活動のために分析をペンディングして、ここにきてノンバイナリーという言葉に出会えました。


ちょっとホッとしたような思いがします。


これから先のことはわかりませんけれど。


この言葉に出会っていったん落ち着いても、自分の中の違和感が消えるかどうかわかりませんし、その原因をまた求め続けるかもしれませんし。


ただ、さしあたり結論が出たことは自分的にはまあまあ大きな出来事かなという気がします。


とはいえ、このことを実名で公表することは考えていません。

なんか、自分の意図しない方向に物事がいくのも嫌ですしね…

周りに宣伝しなくても自分の生活に困るわけでもないので。


自分は自分ということでいいのかな、と思っています。


というわけで、林ティアラの読者の皆さん限定での公開ということにしておきたいと思います。




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